仙台南ゴルフ倶楽部は、1993年4月に開場した。

同年の7月、米国コロラド州にあるチェリー・ヒルズCCでおこなわれた全米シニアオープンでジャック・ニクラウスは2勝目をあげている。1991年に続く2勝目である。 つまりニクラウスは、シニアでも勝ち続けながら仙台南ゴルフ倶楽部の設計をおこなっていたわけである。その後、1996年シニアゴルフのメジャー大会である『ザ・トラディション』で連覇を成し遂げている。まさに帝王ニクラウスが心身ともに成熟し充実していた時期に、この仙台南ゴルフ倶楽部の設計に取り組んでいたのである。

ジャック・ニクラウスは、コース設計者として成功した数少ないプロ・ゴルファーの一人である。

ジャック・ニクラウスは、ジョージ・ファジオと並んで、コース設計者として成功した数少ないプロ・ゴルファーの一人である。 1885年~1900年にかけて多くのプロ・ゴルファーが、コースの設計を手がけた。しかし揃って不人気で、後にゴルフコースの暗黒時代と言われる始末だった。プロ・ゴルファーの設計したコースは、陳腐で決まりきった展開で変化がなく、一般にはきびしく上級者(プロなど)には易しいペナルタイプ(科罰型)であった。コース設計の評価を高めたのは、テリングファスト、トーマス、マッケンジーといったアマチュア出の設計家であった。

1989年、造成現場で打合せをするジャック・ニクラウスと貫井忠彦(代表)

ニクラウスの成功はどこから生まれたか。彼はつぎの意昧のことを言っている。 「彼ら(専門設計家)が、農耕学などを学んでいるとき、私はずうっとグリーンの芝目を読んでいたのだ」 ニクラウスの設計上の成功は、彼がその長い競技歴の中で積み上げてきたプレーヤーとしての蓄積と、名コースでの見聞によるものである。 ニクラウスは、プレーヤー時代の1967年頃、設計家ピート・ダイから、ザ・ゴルフ・クラブ、ハーバータウン・ゴルフリンクスの建設についてレイアウト上の助言を求められている。そして1974年には、デスモンド・ミュアヘッドとの共作でミュアフイルド・ビレッジを設計している。

「ニクラウスの設計したコースは難しい」 と誤解されている。

彼のコースが難しいと思われるのは、ボールのランディングゾーン(落し場所)が厳しく設定されているからだ。フェアウェイを二段にしたり、グリーンを斜行させたり、またスルーザグリーン間近にウエストバンカーや伴走する長い水面をひきつけるのはそのためである。しかしコースをよく読めば、設計者が自分のスタイルを無理強いしているのではなく、それがプレーヤーに正しいルートを選択させるためのシグナルなのだということが判る筈である。自分の力量にふさわしいティマークを選びさえすれば、どんなプレーヤーでもニクラウス・ストラテジーを苦しまずに楽しめる筈である。

たとえば二クラウスは、バン力ーをグリーン間際に引き寄せることで、ホールの戦略上の表情を険しくすると同時にそれを修景的に美しくしてしまうというような特技をもつ。仙台南ゴルフ倶楽部では、1番ホールにその美を見る筈である。 ニクラウスが感性美のアーキテクトと称される理由である。ニフラウスが、コース設計の世界でも、A・マッケンジーやドナルド・ロス、A・W・テイリングファストを凌いで帝王と称されるには、まだ50年以上の時聞が必要だろう。コースの評価は歳月に磨かれて生まれるからである。